高校生活でやっておくこと

高校生活

将来に関わる大切なものを見つけよう!

 私たちが生まれてきた目的は『幸せになる』ため。その『幸せになる』のに必要なのは『夢』。その『幸せ』と夢のお話をします。

幸せになりなさい!

 人間は何のために生まれて来たのか。
 このテーマは哲学の世界では永遠のテーマなようですが、ここではごく普通に「私たちは幸せになるために生まれて来た」という、人類共通の普遍的価値(と私は考えている)について考えてみたいと思います。

 人間は生まれてきた以上、幸せになりたいと考えます。幸せになりたくない人間なんていないでしょう。もちろん、口では「俺は幸せになんかならなくてもいい」なんて言ったりしますが、それでも、その人も幸せになりたいと思っているのです。もしその人が、結婚して幸せになった人に向かって「俺は幸せにならなくてもいい」といったなら、その人にとって結婚が幸せではないというだけで、ひとりでいることが充分幸せだということい過ぎないのです。「死にたい」なんて口にする人がいたら、突然、奇声を上げながら棍棒でも振り下ろして下さい。必死に棍棒をかわそうとするか、身を守ろうとするかするでしょう。また、仮に直撃を喰らったとしても、2撃目はかわそうとするでしょう。本当に「死にたい」なら、よけたり逃げたりしないはずです。そのことと同じです。口にしたからといって、その言葉が本当であるという確証などないのです。
 さて、人間は幸せを求めて存在する以上、その周囲にあるものは、人間を幸せにするために作られたものでなければなりません。つまり、学校で勉強するのも、大学で学問するのも、それは人間を幸せにするためのものなのです。こう考えれば、本来、社会は人を幸福にするために存在しなければならず、その社会で活躍できる人間を作るのが教育ということになります。そして、その教育の成果を見せるのが「入試」であることに間違いはないでしょう。
 そうですね。この幸せという言葉にピンとこない人がいたら、それはこの言葉の意味自体をじっくり考えないからだと思います。私だって、幸せというのは結婚したり家庭を持って子どもの世話をしたりすることに限って使われる言葉なんだと、子どもの頃は誤解してたこともありましたし、他人の成功を妬んだ人間が、自分は成功できずとも、家庭では幸せなんだと口にしたりして、成功者だって幸せなのに、限定された状況にしか使えないとすら誤解してしまいます。
 そこで、次はその「幸せ」について考えてみましょう。
 幸せってなんでしょうか?
 もちろん、人によって幸せの定義は違います。けど、その幸せを本質的に考えて行くと大きく2種類の幸せに分けることが出来るのに気がつきます。
 まず、皆さんに聞きます。
 「あなたにとって幸せって何ですか?」
 どうでしょうか。
 こんな質問をすると、大抵、こんな返事が返ってくるかと思います。

 「家でごろごろしている時」
 「美味しいものを食べている時」
 「好きなことをしている時」
 「好きな音楽を聞いている時」
 「ぐっすり眠れた時」
 「大好きな人と一緒にいる時」

 等々。
 面白いですね。
 私も「カツ丼を食べている時」とか「温泉に入った後に、かーーーーーっと冷えたビールを飲んだ瞬間!」とか言ったりします(笑)。
 けど、これらの幸せを冷静に考えてみましょう。
 これって、全て「欲望が満たされた時の幸せ」「人間の身体が求める欲求が満たされた幸せ」ではないでしょうか?
 実は、このように欲望が満たされた時に感じる幸せのことを「欲望の実現による幸福」と言い、倫理学の世界では「快(かい)」と呼びます。「快楽」の「快」です。この「快」とは、つまり、動物的欲求が満たされたことによる幸福感のことを指しているのです。
 しかし、残念ながらこの手の「幸福感」は、満たされてもすぐに冷めてしまい、忘れてしまいます。一時的に満たされた「幸福感」、つまり、「快」を思い出すことは出来ても、その時のドキドキわくわくを感じることは出来ません。この幸福感は、あくまでも「快楽」に過ぎないのです。食欲が満たされても、またお腹が空いてくるのと同じです。
 では、この「快」が1つめの幸せだとしたら、2つめの幸せとは何でしょうか?
 それは「道徳的行為の実現による幸せ」と呼ばれるものです。

 例えば、雨の日にずぶ濡れになってにゃーにゃー泣いている迷子の子猫ちゃんを見つけたら、君たちの心にはどんな想いが湧きあがるでしょうか?
 そう。
 大抵の人は可哀想とか、助けてあげたいという気持ちが湧いてくるでしょう。
 もしも川でおぼれている子どもを見かけたら?気の早い人は、すぐに上着を脱いで助けに飛び込むことでしょう。
 火炎に包まれた建物の中から助けを求める子どもの鳴き声が聞こえたら?炎に飛び込みたくても自分自身が危険で飛び込めず、いたたまれなくなることでしょう。
 これらは極端な例ですが、このように困っている人、助けを必要としている人を見ると、誰しも心の奥底から「正義」の気持ちが湧いてきて、その気持ちから行動を起こすことがあるのです。実は、これが哲学で言う「性善説:人間の本性は善である」という考えの根拠なのですが、このように快楽を求めたりせず、また、何かの見返りを求めたりせず、ただその人の心の「動機」によって行動し、その行動の結果から、幸福感を得ることがあるのです。
 これを「道徳的行為の実現による幸福」と言い、倫理学の世界では「善(ぜん)」と呼んでいます。

 欲望の実現による幸福→快
 道徳的行為の実現による幸福→善

 さぁ、もう分りますね?
 本当の幸せとはどういうものでしょうか?
 もちろん、「善」とは「正義をなすこと」だけに留まりません。誰かを幸せにすることも「善」であり、家族を幸せにすることで自分も幸福感を得て、大きな幸せに包まれるでしょう。要は、見返りを求めない道徳的行為の実現による幸福です。そう考えると、恋人に何かしてあげて見返りを期待するのって、本当の愛情でしょうか?昨今のテレビを騒がせている「不倫」など、「善」ではなく「快」を求めた結果、醜い不幸に包まれた例といえるではないでしょうか?

 さぁ、皆さんは、この世に幸せになるために生まれて来たのです。そして、ここで言う本当の幸せとは、「快」ではなく「善」による幸せなのです。
 その「善」を見つけること、それが高校生活最大のテーマだと考えています。

 このように「幸福」について話すと、「そんなこと誰が決めたんだ?」なんて因縁をつけてくる人がいますが、その人は、ただ無学なだけです。
  学校の先生になるためには、大学へ進学し、教職課程というのを取り、教育実習をし、教職免許を取り、教員採用試験に合格しなければなりません。その過程で、学校の先生なら必ず学ぶはずの内容です。
 「誰が決めたのか」だって?これは、人類が長い歴史の果てに学んだ価値観です。
 興味があったら哲学・倫理学を学んでみましょう。
 「誰が決めたんだ?」などと口にしたこと自体、どれほど恥ずかしいことか思い知ることでしょう。
 でもって、前述のとおり、学校の先生は必ず学んでいるはずですから、知らない先生がいたら、その先生は、ろくに勉強せずとも先生になれたラッキーな先生か、あるいは特殊な例であると言えるでしょう。
 さぁ!
 ここで、自分自身を振り返ってみましょう。
 2種類の幸せ(幸福)、「欲望の実現による幸福」つまり「快」と、「道徳的行為の実現による幸福」つまり「善」と、君は今の今までどちらの幸福を求めて生活してきましたか?
 「快」ばかり求めて生活する高校生には、恐らく『将来の夢』なんてものは見つからないでしょう。もし見つかっても、それは「快」を求める夢ではありませんか?

 ヒトは、目の前の「快」にばかり囚われてしまうと、欲望の奴隷となり、欲望によって自分自身の心も体も支配されて「自由」が奪われてしまうからです。そうなってしまうと、自分から夢を見つけるなんてことは不可能となり、永遠と満たされない欲求をただただ満たそうとするだけの存在になってしまいます。
 世の中の大人たちを見てみましょう。
 社会は「消費社会」です。ものを消費して生きて行きます。生きて行くためにはお金が必要です。つまり、生活のために働き、お金を稼いで消費生活を繰り返していく。ただそれだけの人間です。
 もちろん、そういう人生だってありだと思います。 「快」ばかり求めて、よく言われる「ブタ野郎」になった中年オヤジやオバハンたちのように、色と欲で穢れまくった人生だっていいと思います。かくいう私だって、りっぱなオジサンだから、欲望の穢れに満ちている存在に過ぎないかもしれませんし(笑)。
 しかし、今、ここで書いているのは未来ある君たちのお話です。「大学や専門学校進学、就職のための話」です。だから、欲望に穢れまくっている大人たちを見本になどできません。
 高校生活の中に「善」はなかったのでしょうか?
 そんなことはありません。
 クラブ活動や委員会、生徒会活動を通して「幸せ」を感じた経験はありませんでしたか?
 友だち同士で何かをやって、やりとげて、幸せを感じたことはありませんでしたか?
 『いいこと』をやってみて『気持ちいい』と感じたことはありませんでしたか?
 何かにチャレンジしてみた。
 その時、『善』を感じ、幸福な気持ちが湧き起こり、心に小さな火が灯る。
 それがあなたにとっての『夢の卵』『夢への火種』です。
 しかし、その後『快』にのめり込んでしまうと、いつの間にかその『火種』は消えてしまいます。
 高校生活を送る中で、その心の『火種』がついては消え、ついては消えを繰り返し、いつのまにか受験学年になってしまった、自分にとって『善』となる夢を見つける前に入試直前になってしまった、そんな受験生がたくさんいます。
 商業ベースのゲームやお金を使うことで「快」を得た行為、なぜ「友だちとディズ○ーランドへ行ったのが高校時代で一番の思い出」という話題が、あらゆる面接試験で相手にされないのか、もう分るでしょう。

 これからは 「総合的な人間性」を評価する時代です。
 ならば、入試や就職のエントリーシートに書くべきことがらが何であるか、分るでしょう。
 そう!
 君たちは、青春をエンジョイすることで、既に次の進路への準備をしていることになるのです。

 私だってホモサピエンス(人間)の雄ですから、若い女性を見れば劣情を催します。それは種の保存のためには必要な欲望です。けど、その欲望を満たしたところで、その幸福感は一時的なものでしかないことを学んできました。だから、そんなことくらいで身を滅ぼしたりはしません。それでも、今の日本社会(都市)には、ありとあらゆる誘惑が渦巻いていて、欲に支配され身を滅ぼす人たちが大勢います。
 けど、その『欲望』『快』がなければ普通の人間は生きていけません。その『欲望』が『夢』の実現、幸せになるためのエンジンとなるからです。


 みなさんはどんな人生を歩みたいですか?
 欲しいものがある。
 やりたいことがある。
 それをお金で買う。
 お金でやる。
 それによって、欲望の実現による「快」を得ることが出来る。けど、欲望にはキリがないですから、すぐに冷めて、さらに欲しくなる。やりたくなる。そのためにお金を稼いで、稼いだら消費して「快」を得て、お金が無くなったらまた稼いで消費して…。こんなことを繰り返しているうちに、気がついたらお腹が出て髪の毛が薄くなったり、腰のくびれが消滅して厚化粧になっています。
 夢を持たなくなってしまった人たちです。
 それが人生でしょうか?
 君たちは、こんな「消費社会の奴隷」になりたいのでしょうか?

 少なくとも、これからの時代で求められているのはこのような人材ではありません。このような人材を「消費者として」求めているのは企業です。企業は利潤追求のため、庶民たちの消費意欲を煽り、お金を使いたい状態に誘惑し、消費を促進させます。
 もちろん、お金が回らなければ経済は活性化しません。しかし、現在の社会の問題点は、あまりにも消費に目がくらみ、お金に目がくらみ、お金を使って「快」を得ることにしか目が言っていないことです。それが深刻なのは中年のオッサンやオバハンだけでなく、若者も同じでしょう。
 将来の目標がない?
 他のページで書いたとおり、そんなの当然。「快」に縛られていたら、将来の目標なんぞみつからないでしょう。
 彼女を幸せにすることが人生の目標です!
 素晴らしい目標ですね。けど、だから大学に進学するとはならないでしょう。そう言う時は、はっきりと「彼女を幸せにするのが私の人生の目標で、そのために就職に有利になれるよう大学を志望しています」と言ってください。「一昨日きやがれ!」と激怒されるでしょう、って口には出しませんが、合格する確率は、宝くじで1等にあたるのよりも低いでしょう。
 高校生活をたくさんの「善」の経験で送って来た受験生は、恐らく、高校からその「善」を認められて「推薦」されて大学へ行くことが出来るでしょう。また、エントリーシートには書ききれないほどの経験や思い出を持っていることでしょう。
 そして、「善」である「真の幸福」を経験できた高校生なら、恐らく、次の目標だって見えていることでしょう。後は、その思い出を選別して、「志望理由書という書類の書き方」を参考にしながら書きこんで行けばいいのです。
 では、「快」ばかりの高校生活を送ってきた受験生は?
 全く問題ありません。そういう高校生は偏差値を上げて「一般入試」を受験すれば良いだけですから。
 色々なところで嫌というほど言っていますが、もう一度言います。特別選抜や総合型選抜は楽して進学できる入試制度ではありません。もちろん、楽して入れるFランク大学の場合は別ですが、本物の総合型選抜は一般選抜以上に難しいです。
 高校生活を通して君たちの今後の人生に必要な『夢』を見つけ、具体化への道を歩み始めるのです!
 いや、人生に夢が必要なのではありませんね。
 夢が人生を創るんです!

 

高校生活
今しか出来ないことを見つけよう!
人生に夢が必要なのではない。夢が人生を作るのだ!

 

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